2023.12.17メッセージ内容

「ヨセフへの告知」 マタイ1:18-25

その名をイエスとつけなさい。この方が自分の民をその罪からお救いになるのです。(21節)

マタイ福音書は、イエス・キリストが旧約聖書に預言されていた救い主であり、神に選ばれたダビデ王の血統にあることを強調しています。「インマヌエル」という呼称を用いるのも、この方が「私たちと共におられる神」であることを示すためでした。御使いが夢でヨセフに告知したこの呼称のもつ意味を3つの点から学んでみましょう。

一、私たちを超えたお方

  マタイは無味乾燥と思われる系図から本書を始めています。それは、旧約聖書を記されている神の計画を短く示すためでした。さらに、この方が処女マリアから生まれることも明記しています。ダビデ王の血統であっても、「聖霊による」懐胎であり、単なる人間ではないことを示しているのです。旧約聖書に登場する偉大な人物を超え、私たちを超えたお方であるとの宣言です。

純潔を尊ぶユダヤ人社会にあって、処女懐胎はつまずきの石でした。系図にも、近親相姦や不倫や異邦人妻などの黒々した事実があえて記されています。そこに、事実を事実として書くというマタイの意図と、汚れた人間の歴史に介入される神の恵みが示されているのです。イエス・キリストは、私たちをはるかに超えたお方であることを認めないなら、聖書は理解できません。

二、私たちと等しいお方

しかし主イエスは、マリアの胎内に10か月間宿り、普通の人間の誕生のプロセスを経て誕生されました。これは、聖書にしばしば登場する御使いと根本的に違う点です。人間を超えたお方が人間として生まれられることは、奇跡中の奇跡としか言いようがありません。神なるお方が私たち人間と「共におられる」ためには、それ以外の方法がなかったのです。

御使いは、主のみ旨を示すために何度か人に現れていましたが、人間の罪の現実を体験することはできません。私たちの苦しみや悩み、肉体を持つゆえの悪の誘惑などを理解することは決してできないのです。しかし、それらを実際に味わうために、主イエスはマリアからお生まれになりました。弱い人間と共に生きるために、主はこの地上にお生まれになったのです。

三、私たちを救うお方

イエスとは、ヘブル語では「ヨシュア」と発音します。その名は「主は救い」という意味であることを知ってください。罪を犯し、悩みの中に生きる人間と同じになられたからこそ、そのような人々を救うことができます。厳格な預言者も、聖なる御使いもできないこと、それは人間を罪から救うことでした。まさに神の子でしかできないことをこのお方は成就してくださったのです。

神のように崇高な人物は、過去に何人かいたに違いありません。そのような人を憧れることはできるでしょうが、それと同じように生きることは実際には難しいものです。しかし主イエスは、できない私たちと共に生きることによって、その罪と悩みを一緒に背負ってくださるのです。上からの救いではなく、同じ立場になって、私たちを支えてくださるのです。それが救いです。

ヨセフは大工でした。決して博識だったわけではありません。しかし、御使いが「インマヌエル」である方の誕生を告知したとき、それを素直に受け入れ、「主の使いが命じたとおり」に、困難を承知でマリアを妻にしました。周囲から誤解されたかもしれませんが、彼は主のみ旨に忠実でした。私たちもそうありたいものです。

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