「12弟子を選ぶ」 マルコ3:13-19
イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。(17節)
イエス・キリストは、神の国の福音を宣べ伝えられるとともに、弟子たちを訓練されました。宣教と訓練は主の2大使命だったのです。だからこそ、主は慎重に12人の弟子たちを選ばれました。福音書の記事を見ると、違った背景や性格をもつ弟子たちでしたが、主は明確な目的をもって彼らを選ばれたことがわかります。
一、主に呼び寄せられる者
主が山に登られるのは、多くの場合、祈るためです。祈った後に「ご自分が望む者たち」を呼び寄せられました。ここに記されている者たちの内、最初の4人は漁師です。決して博学な者ではありません。ピリポとバルトロマイ(ナタナエルとも言われる)は4人の友人でした。マタイだけはかなり学識ある人で、福音書記者の一人となりました。アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモンについては、ほとんど記録がありません。
問題は、なぜユダさえも呼び寄せられたのかです。彼だけが、中心都市エルサレムの近くにあるカリオテの出身と推測されています。会計係だったと記されているので、それなりの教養があったのでしょう。主は、あえて彼を呼び寄せられました。主に対する思いは他の弟子と違っていたでしょうが、主と共にいる間に、主の愛を受けて変えられる可能性はあったのです。
二、主のそばに置かれる者
「ご自分のそばに置くため」との一句は重要です。最も頻繁に登場するペテロは実直でしたが、最後には主を裏切りました。「雷の子」とあだ名をつけられたヤコブとヨハネは、怒りっぽかったのかもしれません。トマスも主の復活を信じることができなかった弱い人でした。しかし、彼らは3年間、主のそばにいて、主がどういうお方かを身をもって知ったのです。人格的な繋がりを持つことは、その人に大きな影響を与えます。
特に、弟子たちの足を洗われた主の姿は、大きな衝撃を与えたことでしょう。また、復活の主にお会いしたことも劇的な変化をもたらしました。「雷の子」だったヨハネは、愛を強調する福音書や手紙を書く者となりました。あの疑い深いトマスも、「わが主、わが神」と告白しました。主と共に生きる者は、変わらざるを得ないのです。
三、主に遣わされる者
「使徒」という語は、「遣わされた者」という意味をもっています。主イエスは父なる神からこの地上に遣わされたのですが、その期間はごくわずかでした。しかし、多くの人々に神の国の福音を伝えるために、ご自分の代わりに、弟子たちを選んで訓練されたのです。弟子たちは、復活が事実であることと、主イエスは聖霊として共に働かれていることを大胆に語りました。
現在の私たちも、キリストの弟子となることができます。そのために私たちは呼び寄せられました。だから、どんな時でも主のそばにいましょう。いつも祈りによって、主と交わりましょう。そしてまだ主を知らない人々の中に出ていきましょう。それが「使徒」の働きです。主と共に過ごすならば、あの12弟子たちと同じように、大胆に主を証しすることができるようになります。
「教会」とは、原語のギリシャ語(エクレシア)では「主から召された者の集い」という意味です。呼び寄せられても、ユダのようになってはなりません。常に主の愛のまなざしを受けとめ、愛されていることを感謝しましょう。必ず弟子たちのように生涯が変えられていきます。