「主の山に備えあり」 創世記22:6-14
わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。(8節)
アブラハムの生涯で最も厳しい時が本日の聖書個所には描かれています。しかしそれは、神の御計画が少しだけ、示された時でした。アブラハムは百歳の時に、祝福の源となるイサクが与えられたのですが、神はあえて「イサクをささげなさい」と命じられます。苦闘の末に神に従っていく姿を通して、神の備えは明らかになります。
一、信仰の備え
神の命令は理不尽極まりないものでした。子どもを犠牲にするのは当時の異教の習慣だったからです。さらに、イサクが死んだら、子孫を増やすという約束はどうなるのでしょうか。彼は一晩悩みました。しかし、翌朝早く、イサクを連れて主の示された山へ出発したのです。「モリヤの地」とは、後にエルサレムとなった場所であることを忘れてはなりません。
アブラハムがこの決断をしたのは、復活信仰が与えられたゆえであることが、ヘブル書11:19に明記されています。旧約時代に復活信仰をもつことができたのは、アブラハムが「信仰の父」と呼ばれるゆえんでもあるでしょう。さらにまた、悩みながらも主に信頼するという、神との繋がりも示されています。現在の私たちがもつ信仰は、すでに4千年前に明らかにされていたのです。
二、救いの備え
3日間の旅は、アブラハムにとって耐え難いものだったに違いありません。薪を背負うイサクの「羊はどこにいるのですか」との問いに、「神ご自身が備えてくださる」と答えるアブラハムの心中はどんなものだったでしょうか。着いてから、イサクを縛り、祭壇の上に載せた時、イサクは全てを悟ったでしょう。しかし彼は、父親のすることに抵抗せず、従順に従ったことは重要です。
イサクの姿に、御子イエスの十字架の出来事に似たものを見ることができます。でも大きな違いがあります。アブラハムが息子を屠ろうとした時にあった「その子に手を下してはならない」という言葉は、主イエスの時にはなかったのです。だからこそ、人類の救いは成就しました。愛するひとり子をささげる決心をしたアブラハムの痛み以上の痛みを、父なる神は経験されたのです。救いの計画はすでにこの時に備えられていました。
三、必要の備え
アブラハムが目を上げて見ると、一匹の雄羊が見えました。主のことばどおり、それはすでに用意されていました。彼はそれに気づいたのです。アドナイ・イルエは直訳すると「主は見つけられる」という意味です。私たちがどんな試練にあおうとも、主は逃れる道を用意されています。それに気づかないだけなのです。私たちも目を上げて見ましょう。主はそこにおられます。
私たちがこの世界に生きている間には、多くのものが必要です。物質的な必要だけでなく、霊的な必要もあります。しかし、「神の国とその義」とを求める者には、全て与えられます。なぜなら神ご自身が私たちの必要を全て、ご存じだからです。アブラハムが「信仰の父」であるのは、この試練を通して、神が全てを備えてくださっているとの確信を得たからにほかなりません。
現在、大きな試練に直面されている兄姉もおられることでしょう。しかし希望をもってください。あなたの試練は、今後の歩みのための備えだからです。主は試練ともに逃れる道も備えてくださっています。なによりも主ご自身があなたのすぐそばにおられることを発見しましょう。