「永遠のいのち」 ヨハネ3:1-16
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(16節)
主イエスを救い主と信じる人には、「永遠のいのち」が与えられることは、キリスト教信仰の基盤です。それは現在私たちが持つ肉体の命とは全く質の違うものであることを知ってください。主はこのことを、当時のエリートであるニコデモとの会話の中で示されました。「永遠のいのち」には次の3つの特色があります。
一、明確な始まりがある
ニコデモは「ユダヤ人の議員」でした。皆から尊敬される身分であり、旧約聖書のことも熟知し、年齢も重ねていたことでしょう。けれど、謙遜に主イエスのもとにやってきて、教えを乞うたのです。主は彼に、「新しく生まれる」ことの必要を教えられましたが、彼はその意味を理解できませんでした。生きた神との交わりを持つことなど考えてもいなかったからなのです。
肉体の命は両親から授かったものであり、受胎/誕生のときに始まります。一方、「永遠のいのち」は、主イエスがどういうお方であるかを知り、この方に信頼するときに始まります。これは風のようなものです。肉眼では見えなくても、木の枝の揺れなどで風の存在がわかりますね。主イエスとの交わりが始まるなら永遠のいのちが与えられ、愛・喜び・平安が生まれるのです。
二、明確な成長がある
ニコデモは、「ユダヤ人の教師」とも言われています。彼は「地上のこと」については多くの知識を持っていましたが、「天上のこと」については全くの無知でした。律法を正しく理解し、それを守ることについて教えることはできても、律法の授与者である神との交わりについて教えることは一度もしたことがなかったのです。神との交わりを知らないなら、霊的に成長することはできません。
肉体の命は呼吸と食物によって維持され、人は成長していきます。しかし「永遠のいのち」は永遠なるお方との交わりによって維持され、そのいのちは毎日成長し、深まっていくのです。しばしば「目に見えないものは信じない」という人がいますが、それは傲慢なことです。人と人との信頼関係は目に見えませんが、結果は目に見えます。見えない神を信頼するならその人は成長し、目に見える形で変えられるのです。
三、明確な実例がある
主イエスは、ご自分が「天から下って来た者」と言われます。だから目に見えない永遠の世界のことを人に伝えることができます。この方は、「モーセが荒野で蛇を上げた」ように、自らが犠牲となって、十字架に上げられねばなりません。蛇の毒によって死にそうになっている人々が癒されたように、主イエスを救い主と信頼し、この方を「仰ぎ見れば生きる」のです(民数記21:8)。
肉体の命はいつか終わります。その時のために備えているでしょうか。生命保険は遺族の助けになりはしても、本人の命を救うことはできません。肉体の死のあとには何もないとするなら、それこそが「滅び」であると聖書は明言します。しかし、人が滅びることのないように、主は私たちの身代わりとなられました。主イエスの死と復活こそが、永遠のいのちの実例なのです。
有限な肉体を持つ私たちが、「一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ」ために、神は御子イエスをこの地上に与えてくださいました。このことを素直に受け入れるなら、永遠のいのちは私たちに与えられます。もはや死を恐れる必要がなく、愛・喜び・平安が生まれ出るのです。