2023.07.09メッセージ内容

「主イエスの洗礼」 マタイ3:13-17

見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(17節)

主イエスは、神の国の福音を語り始められる前に洗礼を受けられました。罪を洗い流すために洗礼が必要だとしたら、主が洗礼を受ける必要はないように思えます。しかし、この出来事は主がその使命を果たすために必要不可欠でした。洗礼は、単なる儀式ではなく、人に永遠のいのちが与えられる重要な根拠だからです。

一、人との一体化

クリスマスは、真の神が真の人としてこの地上に来られた日です。そして神の子イエスは、少年時代を家族と共に過ごし、30歳の頃、バプテスマのヨハネのところに行かれました。罪の悔い改めのしるしとしてバプテスマを授けていたからです。どんな人でも、神の目からは罪びとです。主がバプテスマを受けられたことは、罪びとにご自分を一体化されたことの表明なのです。

当時、羊や牛が犠牲として神に捧げられることによって罪が赦されると律法は教えていました。しかし、羊や牛に人間の代わりとなる値打ちがあるのでしょうか。ありません。値打ちがあるのは、何の罪も犯したことのない方だけです。主イエスはまさにそういう方に他なりません。主は、罪びとの受けるバプテスマを受けることにより、ご自分を罪びとと全く一つとされたのです。

二、神との一体化

洗礼の後、「神の御霊が鳩のように」主の上に降って来られました。また天から、「これはわたしの愛する子」という声がありました。父・子・聖霊が一つとなったことを証しています。もちろん主イエスはこれ以前にも、ご自分が父なる神から遣わされ、聖霊に導かれておられました。しかしこの時、三位一体の神の姿が明確に人々の目に飛び込んだことを忘れてはなりません。

聖霊によって誕生され、自分の父が神であることを自覚なさっていた主イエスは、この時点で人類の贖いをなすという使命を確認なさったのです。しかもこれは、その場にいた人々によって目撃されました。人としての肉体をもちながら、その後も父なる神の御心に従って歩むことができたのは、この出来事があったからです。真の人である方が真の神であることは、これ以後の福音書の記述で証明されます。

三、私との一体化 (ローマ6:1-4)

この出来事から約20年後、パウロはバプテスマの意義を書き記しました。バプテスマがキリストの死と復活を象徴的に示し、バプテスマによって自分は死んで復活するのだという真理を解き明かすためでした。主イエスは父なる神の裁きを受けて十字架で死なれたのですが、3日後の復活によって新しいからだに復活されました。私たちもこの主と一つにされるのです。

バプテスマを受けた者は、古い自分ではなくなります。「いちど死にし我をも、イエスは生かしたまえり。咎と罪の代わりに、新たなる命あり」と歌うように、主イエスのいのちが私たちの内に宿っているのです。このことは、信仰によって受け入れる以外に道はありません。「時の間をも惜しみて、君は我と語ろう。君は我を放たず、我はまた主にぞつく」(聖歌609)と告白しましょう。

主イエスはバプテスマによって私たちと同じ者になられ、私たちもバプテスマによって主と同じ者になりました。問題はこの事実を受け入れているかどうかです。自分の罪深い現状を見てあきらめるのではなく、主の憐みの大きさに感動して生きていく者となりましょう。

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