「復活のからだ」 ルカ24:36-43
幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。(39節)
「霊魂の不滅」を主張する宗教は多くあります。しかし聖書は、霊魂だけでなく、「からだのよみがえり」も明確に宣言しています。使徒信条で、私たちはこのことを毎週告白しているのです。主イエスの復活は霊的なものではなく、復活のからだがあることを示しています。復活のからだには次のような特徴があることを知ってください。
一、肉眼で見える
エマオの途上で、二人の弟子たちは主のからだを肉眼で見ました。彼らは急いでエルサレムに帰り、この経験を11弟子に報告しました(正確にはトマスはいなかったので10人/ヨハネ20:24)。そのときにも主は彼らにご自身を示されたことに注目してください。締め切った部屋に主が来られたとは不思議です。だから彼らは、「幽霊を見ているのだ」と思いました。
もし私たちがその場にいても、同じように思ったことでしょう。主が復活されたのは、そのような誤解を正すためでした。この地上に生きている肉体は、永遠に続くものではありません。しかし、復活された主のからだは永遠に続くものです。それを教えるために、「わたしの手やわたしの足にさわって、よく見なさい」と、視覚と聴覚で確かめるように語られたのです。
二、肉と骨がある
主の手と足には、十字架につけられたときの傷跡がありました。ひょっとして骨の一部が見えていたかもしれません。この時、その場にいなかったトマスには、「あなたの指をここに当てて、わたしの手をみなさい」と、触覚を通しても、復活のからだがあることを受け入れるようにされたのです(ヨハネ20:27)。ここからも、主の復活は肉体を伴ったものであることがわかります。
しかし、復活のからだは、現在の私たちのからだと同じではありません。傷や痛みを感じることのない新しいからだです(黙示録21:4)。また、肉眼で見えなくなるからだでもあります。わかりやすく言えば、タイムマシンに乗るようなものと言えるでしょうか。同じ場所でも、時間が違うならその人は見えません。時間に縛られなくなるからだ、それが復活のからだです。
三、飲食ができる
彼らが見ているお方が本当に主イエスであることがわかって喜んでいた彼らでしたが、「不思議がっていた」とも書かれています。そこで主は、「ここに何か食べ物がありますか」と尋ねられ、焼いた魚を食されたのです。復活のからだは、本来栄養をとる必要がないものですが、それでは霊と同じと受け取られるので、主はあえてそうなされたのでしょう。味覚と嗅覚をここに見ることができます。人間の五感が総動員されています。
エマオの途上の宿屋ではパンを、この所では魚を、主は食されました。5つのパンと2匹の魚で5千人を養われた奇跡を思い出します。これらの食事は決して豪華なものではありませんが、人間の命を支えるものです。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るのは、主が私たちのからだを配慮してくださっているからです。それは、復活のからだでも同じことです。
復活のからだは、私たち一人ひとりにも用意されています。どんなからだか、明確に知ることはできないにしても、その希望があります。現在の肉体はいつかなくなりますが、主が再び来られる時には、私たちも、主と同じ復活のからだを与えられます。なんと嬉しいことでしょうか。