「生ける主イエス」 ルカ24:13-27
イエスは、…ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。(27節)
イエス・キリストの遺体が、葬られたはずの墓になかったことは、弟子たちにとって驚きでした。しかしそれだけでは、キリストがよみがえられたことの確証にはなりません。その日の午後、エマオという村に向かっていた二人の弟子たちも、その朝の出来事を知らされていながら、疑問だらけでした。そんな彼らに、主イエスは・・・
一、近づかれた
この二人の弟子は、十字架の現場に居合わせていたと思われます。彼らは主イエスが王となってイスラエルの国を支配されることを期待していたに違いありません。しかし、その希望はむなしく消えたばかりか、遺体もなくなってしまったと聞いて、失意のうちにエルサレムから離れようとしていたのです。そんな彼らに、主イエスご自身が近づいてこられ、共に歩き始められました。
彼らの語っていたことは、みな過去の出来事でした。遺体がなくなっていたことも、聞きかじりの情報でした。失意のどん底にいた彼らには、主が近づいてこられたとしても、その方を主と認めることができなかったのです。これは、現代においても起こりえます。キリストは過去の人物に過ぎないという人は、たとえ主がそばに来られたとしても、認めることはできません。
二、解き明かされた
近づかれた主は、「ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに解き明かされた」のです。主イエスの生涯は、たまたま、そのようになったというものではなく、旧約聖書のモーセや預言者たちがすでに語っていたことだと二人に教えられたのです。確かに、イザヤをはじめ多くの預言者は、主の誕生・十字架・復活などを何百年も前から書き記していました。
私たちが聖書を読んでいるのは、その中にキリストの姿を見出すためです。新約聖書はもちろんですが、旧約聖書の中にもキリストのことは書かれています。しかもこの現代に、キリストは生きておられることを見出すことができるのです。毎日、毎週、聖書を読むなら、自分の今の問題に対する解決を発見することができます。そのとき、不思議に心が内に燃えるのです。
三、共に宿られた
目的地に着いたとき、彼らは「一緒にお泊まりください」と願い出ました。あまりにも楽しい会話の時だったからでしょう。そして夕食の席に着き、感謝の祈りが捧げられたとき、「彼らの目が開かれ、イエスだと分かった」のです。そのとたん、主の姿は見えなくなりました。よみがえられた主が自分たちと共におられるとわかったなら、もはや肉眼の目で見る必要はないからです。
現代でも同じことが言えます。よみがえられた主イエスは、不信仰な者にも近づいてくださり、聖書を理解させてくださることがわかるなら、この地上にその姿がなくてもかまいません。この弟子たちが、大喜びでエルサレムに戻り、この事実を伝えたと同じように、私たちも喜びに満たされて、人々に主イエスのことを伝えることができるのです。主は共に宿ってくださるのですから。
よみがえられた主は、今も生きておられます。肉眼の目で見ることはできません。しかし、聖書を読むときにその言葉の意味を解き明かしてくださり、喜びに満たしてくださいます。こんな罪深い者と一緒に宿ってくださるのです。なんという大きな恵みでしょうか。主の復活を信じる者に与えられる祝福を心から賛美しましょう。