2023.04.09 メッセージ内容

「復活は事実なのか」 ルカ24:1-12

あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に探すのですか。ここにはおられません。(6節)

十字架はその意味が、復活はその事実が重要であると言われています。私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださった主イエスは、本当に復活されました。ですから、毎年毎年、イースターという特別な日にそのことを確認しているのです。初めは信じられなかった弟子たちが信じるようになった経緯を学んでみましょう。

一、女たちの証言

女性たち(マグダラのマリア/ヨハンナ/ヤコブの母マリア)は、主が復活されるなどとは夢にも思っていませんでした。だから遺体に塗る香料を持って、安息日の翌朝、墓に行ったのです。でも墓に主の遺体がないのに気づき、途方に暮れていました。そこに、御使いと思われる二人が近くに来て、「ここにはおられません。よみがえられたのです」と言います。信じられないことでした。

ですから、2千年後の今日、復活を信じられない人たちが多くいることは当然でしょう。しかし重要なのは、その事実を他の弟子たちに伝えたことです。見た通りの情景を語ったことです。新約聖書は、このような証言を記した書物ということができます。歴史とは、現実にそれを見たり聞いたりした人によって作成されます。だから、その人たちの信頼性が問われるのです。

二、主イエスの証言

5-7節に記されている御使いの言葉は、主がすでに3度言われていたことでした(9,13,18章)。御使いの任務は、主が証言されていたことを女たちに思い出させることでした。そこには、三日目という期間も明言されています。これは、旧約聖書のホセア6:2に預言されていたことでもありました。当時、そのことが現実に起きると信じていた人が何人いたでしょうか。

復活も、十字架と同様、偶然に起こったことではありません。それは、罪ある人間に永遠のいのちという希望を与えるために、神のご計画の中心に据えられた出来事でした。だれもが死を迎えるという現実の中では、死後に希望をもつことなどだれにもできません。しかし、死は終わりでないということを、主はことばだけではなく復活という事実を通して証明されたのです。

三、弟子たちの証言

女たちの証言は、11人の弟子たちには「たわごとのように」思えました。ペテロはそれを確認しようと墓へ行きましたが、遺体がなかったので驚きながら戻ってきます。主イエスが、「自分は十字架につけられ、三日目によみがえる」と三度も言われたことを、弟子たちでさえ信じられなかったのです。ルカは、弟子たちのそんな愚かな姿を隠すことなく、ありのまま記しています。

もし、主イエスの復活が作り話であるなら、ここで物語は終わります。「イエスという人物が存在したが、十字架で殺されて非業の死を遂げた」ということだけが歴史に残るだけです。当然、キリスト教というものが生まれることはなかったでしょう。しかし4つの福音書は、その後におこった出来事を詳しく記します。彼らは、たとえどんなに嘘つき呼ばわりされても、復活の主と出会ったことを記録しないではおれなかったのです。

弟子たちの証言を聞き、またその記録である新約聖書を読んだ人々は、実際に復活のキリストに会うことがなくても、復活の希望をもつことができました。そして、「栄えに満ちた喜びに踊って」いました(Ⅰペテロ1:8)。そして現在生きている私たちも、この喜びをもっているのです。

目次