2023.04.02 メッセージ内容

「十字架によって」 ルカ23:44-49

百人隊長はこの出来事を見て、…「本当にこの方は正しい人であった」と言った。(47節)

十字架と復活は、キリスト教信仰の基盤です。特に十字架は教会のシンボルマークにもなっています。十字架によって、人間の根本問題である罪が解決される道が開かれたからです。神の御子であるイエス・キリストが十字架で死なれたことによって、世界中のすべての人々が以下のことができるようになりました。

一、神と和解できる

主が十字架につけられたのは昼でしたが、正午頃に太陽は光を失い、全地が暗くなりました。この世の罪深さを表している現象でしょう。でも午後3時頃に突然、神殿の中で聖所と至聖所を分けている幕が裂けたのです。年に一度だけ、大祭司だけが入ることができた至聖所に、だれもが行けるようになりました。聖なる神ご自身が、和解の道を開かれたからです。

旧約聖書の時代、罪を犯した人は子羊を犠牲とすることによって罪が赦されるとされていました。しかし、動物ではなく神の御子が犠牲となられ、罪に対するさばきを受けられたのです。どんな罪びとでも、このことを信じるなら、聖なる神にお会いすることができます。現代でもこの原則は変わりません。どんな罪に悩む人でも、この信仰によって神にお会いできます。

二、神に信頼できる

主はこの直前、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ27:46)。詩篇22篇1節のこの叫びは、父なる神の御心に従って歩まれた主イエスしか言うことができません。この疑問に対して父なる神は、「おまえが見捨てられない限り、罪びとの救いの道はない」と答えられたのでしょう。

それを受け入れられたからこそ、主は「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と言われました。父なる神をまったく信頼されたのです。全世界の人々の罪の赦しのために、御子イエスが犠牲となられたとするなら、私たちはどのように行動すべきでしょうか。「おまえならできる」と信頼してくださったお方を、私たちもまた信頼することではないでしょうか。

三、神を理解できる

皆から尊敬されていた人が残酷な処刑をされている現実を目撃していた人の何人かは、「なぜこんな不条理なことがあるのか」と思っていたことでしょう。「父よ、彼らをお赦しください」(34節)という主の祈りも、彼らには驚きでした。主を十字架につけていたローマ軍の百人隊長もその一人です。彼は、主の平安な最期を見て、「本当にこの方は正しい人であった」と言わざるを得ませんでした。それまでの見方が一変したのです。

当時の多くのユダヤ人は、弟子たちでさえも、「神ならローマ軍を追い払ってくれる」と考えていたようです。しかし、それとは正反対の歩みをされた主イエスによって、彼らの神観念は変わりました。戦いによって敵を打ち破るのではなく、犠牲を払う愛によって人々の心を変えるという神の御性質が、主の十字架によって示されたのです。私たちにもそれが理解できるでしょうか。

「偉大な教祖が敵に殺されたことが人の救いの基盤である」と主張する宗教は、他のどこにもありません。十字架は、多くの人にとってはつまずきであり、愚かなことです。しかし、教会はこの十字架を2000年間伝えてきました。その結果、罪の重荷から解放され、感謝と喜びの生活を始めた人々がたくさん生まれてきたのです。

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