2023.03.26 メッセージ内容

「わたしはぶどうの木」 ヨハネ15:1-11

人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、・・・多くの実を結びます。」(5節)

主イエスはご自分が牧者・よみがえり・道であることを教えられた後、ぶどうの木であることも示されました。私たちはその木につながる枝です。この譬えは、私たちが三位一体の神と親密な繋がりを持つことの重要性を表しています。この繋がりがあるなら、私たちは地上にあっても豊かな実を結ぶことができるからです。

一、父なる神の愛によって

ここで主は、父なる神をぶどう畑の手入れをする農夫に譬えられています。イスラエルの国は神が耕されたぶどう畑なのですが、良い実を結ばない木は取り除かれると主は言われます。その背景には、主に背いたゆえにバビロン捕囚という悲劇がありました。でもそれは、父なる神の望んでおられたことではなかったのです。

神は、多くの実を結ばせるために、刈り込みをなさいます。この語には、原語で「きよくする」という意味もあります。私たちの生涯にも、幾つかの試練があるでしょう。それらは、私たちが多くの実を結ぶために他なりません。試練が私たちをきよくするのです。父なる神は、愛のゆえにこのことをなさいます。試練の時、神は自分を見捨てたと思いがちなのですが、そうではありません。かえって、父なる神に近づく機会です。

二、御子イエスの愛によって

実を結ばない木を憐れまれた神は、失敗した者を回復させるために、御子イエスを遣わされました。そして主ご自身が良いぶどうの木になってくださったのです。そして罪びとたちと繋がってくださいました。それを知って、自分も主イエスと繋がるなら、その生き方は全く変わります。ぶどうの木のいのちがその枝を生かすのです。

枝が、「自分だけで実を結ぼう」と思っても、それは無理なことです。枝は木の幹に繋がることでしか実を結ぶことはできません。離れるなら、枯れてしまいます。主は、「わたしの愛にとどまりなさい」と言われました。主が私たちを愛して下さっているというのは、聖書が繰り返して宣言している真理です。私たちは、そのことばを全面的に信頼しているでしょうか。

三、聖霊の愛によって

父なる神が農夫、御子イエスがぶどうの木であるなら、聖霊は、木から枝に流れ込む樹液に譬えられるでしょう。樹液は外側からは見えませんが、木から枝にいのちを運んでいるのです。主イエスを愛している人に聖霊は豊かに働き、たとえ時間がかかっても、実を結ばせてくださいます。主の愛にとどまるなら、枝もまた愛の実を結べるのです。さらに、喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制の実も結んでいきます。

注意すべきなのは、これら「聖霊の実」は、木そのものの益にはならず、それを取って食べる人の益になることです。他人がその実を食べることによって、そのおいしさに感動します。さらに、他の多くの人々と分かち合うようになります。これこそが伝道の働きと言えるでしょう。だから自分が多くの実を結べたとしても、誇ってはなりません。それを分かち合うことが大切です。

三位一体の神の本質は愛です。神の愛がわかればわかるほど、私たちも愛をはじめとする多種の実を結ぶことができます。「朝祈る前に、夜寝る前に、神は愛なり、神は愛なりと、心の中で唱えてみよう」という水野源三さんの詩は、私たちの日々の原動力となるのではないでしょうか。私たちもこの愛に繋がって生活しましょう。

目次