「みこころに従うイエス様」 ヨハネ 18:1-11
「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。」(Ⅰペテロ2:24)
本日は、イエス様がゲッセマネの園で祈られてから逮捕されるまでの箇所から、イエス様が神のご計画に従い、進んで十字架に向かわれたことを見ていきます。
他の福音書(マタイ26:36~46、マルコ14:32~42、ルカ22:40~46)では、人としてイエス様が苦しまれた姿が強調されていますが、ここでは、神の子・救い主として自らの意志でご自分を明け渡された姿が強調されています。
1.ゲッセマネでの祈り(マタイ26:36~46)
イエス様が、この杯を「できることなら」過ぎ去らせてくださいと祈っています。それは、「十字架以外の方法があるなら」ということでしょう。ここでいう「杯」とは、人間の罪に対する神の怒りとさばきです。もし、人間の努力や何らかの方法によって救われる道があるならば、イエス様が身代わりに死ぬ必要はありません。罪人は罪人の身代わりになることはできないので、罪のないお方が神のさばきを受ける必要があったのです。イエス様にとって、この「杯」は、十字架で死ぬという肉体の苦しみに加えて、父なる神との断絶を意味するものでした。イエス様は、神の願われていることこそが最善であると信頼し、「みこころがなりますように」と明け渡されました。そして、眠っている弟子たちに「さあ、行こう」と声をかけたのです。
2. イエス様の権威(3~9)
イエス様を裏切ったユダの導きにより、兵士や下役たちが武器を持ってやってきました。イエス様はこれから起こること(逮捕・裁判・処刑)をすべて知っておられたので、自分から「わたしがそれだ」と名乗りを上げました(4~6)。ギリシャ語の「エゴー・エイミ」は「わたしは神である」という告白でもあります。イエス様の堂々とした姿に、兵士たちは後ずさりし、地に倒れたことから、圧倒的な神の子の権威がうかがわれます。それだけでなく、緊迫した場面で、弟子たちを守ろうとする配慮も感じられます。
3. みこころに従って(10~11)
ペテロは剣で戦おうとしましたが、それは神のみこころではありませんでした。イエス様はペテロをいさめ、父なる神が下さった「杯」を飲む覚悟を語られました。それは、人間の罪に対する神のさばきと怒りを身代わりに受けることです。罪の奴隷となっている私たち人間を救い、罪と死に対して完全な勝利をもたらすためです。イエス様ははっきりとした自覚と目的を持って、十字架へと進んで行かれました。イエス様は、人であるからこそ、私たちの弱さを理解して寄り添うことができ、神であるからこそ、救う力を持っておられるのです。ペテロはこのとき、イエス様の言われた意味が分からなかったでしょうが、のちに手紙で十字架の意味を知らせました(中心聖句)。
キリストは、神のみこころに従い、自ら進んで十字架におかかりくださいました。その十字架の苦しみは、「私の」罪の身代わりと信じて、感謝しましょう。