「主イエスを信じる信仰」 使徒の働き8:26-40
「主の名を呼び求める者はみな救われる」 (ローマ10:13)
エチオピヤ高官カンダケが読んでいた『イザヤ書52:13―53章』は、主イエス・キリストの十字架の苦難を預言している「苦難のしもべ」という箇所です。ピリポに導かれて、「彼」とは「主イエス・キリスト」と示され、高官は、主イエスを信じ、即座にバプテスマを受けました(使徒8:38)。初代教会時代の異邦人の最初の信仰者です。
イザヤ書52:13―53章の解説
1、苦難のしもべ (52:13―53:2)
「見よ」(52:13)と、注視させます。「高められ…」(52:13)、「ひこばえのように‥」(53:2)とある姿が、本来の命が満ちあふれる姿であるはずです。しかし、見るも無残な損なわれた人間の姿になっています(52:14、53:2)。
神のしもべが、なぜ、このような惨たらしい姿となるのか、誰も想像でませんし、信じられず、驚き、沈黙しています(52:15)。
2、人が捨てた姿(53:3―4)
「彼」は、蔑まれ、人からのけ者にされました。「人が顔を背けるほど蔑まれ」と、疫病者のように嫌われました。それは、神にのろわれた姿です(ガラテヤ3:13)。
「彼」は、「悲しみの人」、「病を知って」いました。それは、「私たち」の病、悲しみを担ったから(53:4)。それなのに、「私たち」も「彼」を尊ばなかったのです(53:3)。
3、神に罰せられた姿(53:4-9)
神が「彼」を、罰せられ、打たれ、苦しめられました。
「彼」は、「私たちの背きのために刺され」「私たちの咎のために砕かれた」のです(53:5)。
「彼の懲らしめが私たちに平安がもたらし」、「その打ち傷のゆえに、私たちは癒された」のです(53:5)。「私たち」は自分勝手な道に向かい、迷っていたのにもかかわらず、「主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」のです(53:6)。「彼」が黙々と苦難に向かっていく姿があります。「彼」は強い願いと意志によって、苦難へ向かっていきます。「彼」の死は「罪人」の死です。暴虐者として裁かれ、処刑され、罪人と一緒に埋葬されました(53:7−9)。「彼」は不法を働かず、口には偽りがなかったのです(53:9)。
4、苦難のしもべ勝利(53:10−12)
「彼」を砕くことは、主のみこころでした。主は、苦難のしもべに、「私たち」の罪を背負わせ、「彼」を罪人として処罰し、見捨てたのは、主のみこころ(願い、ご計画)でした。苦難を担った「彼」の心の内は、「彼は自分のたましいの激しい苦しみの後を見て、満足する」のです(53:11)。
「彼」の苦難によって、私たちに与えられ勝利は、「末長く子孫を見る」(永遠の生命)(53:10)です。「私たち」は「彼」のものとなったのです。戦争に勝利した将軍が、解放した捕虜と、勝利の戦利品を率いて、本国に凱旋し行進している姿が描写されています。(53:12,コロサイ2:14―15)。
「彼が自分の生命を死に明け渡し」「彼は多くの人の罪を負い」「背いた者たちのために、とりなしをする」のです(53:12)。
「彼」は、主イエス・キリストで、「私たち」の中に、私自身がいると信じているのです。