「行いではなく、信仰」 ローマ 3:27-31
「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。」(ローマ3:27)
ローマ3章21−27節は、罪人である私たちが、主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて、神に義と認められることが示されています。「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです」(24節)、「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました」(25節a)。神に義と認められる救いを、人は「信仰を持って受け取る」ことが繰り返し強調されているのが本日の後半(27−31節)です。
1、信仰義認によって、私たちの誇りは取り除かれた
もし、自分の律法の行い(善行)によって、神に義と認められるとすれば、その行為が誇り(自慢、自己満足)になり、自分の救いの保証になってしまいます。パウロは、誇り高き宗教エリートでした。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました」(ピリピ人3:5-7)。パウロは、主イエス・キリストを信じた後、そのような誇りは、「ちりあくた(塵、ゴミ、糞土)」と言っています。
自分が持っている「良いもの」があったとしても、その功績によって、神に義とされたのではないのです。逆に、自分が「悪しきもの」を持っているから、神は義と認めてくださらないのではないのです。神に義と認められる救いは、ただ、信仰によって受け取るだけなのです。「自分の善行による義認」が、私たちの心に、教会に忍び込んでくるので、聖書は繰り返し警告しているのです。私たちの誇りは、ただ主イエス・キリストだけです。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました」(ガラテヤ6:14)
2、神は唯一、主イエス・キリストも唯一
神は、割礼のあるユダヤ人も、無割礼の異邦人も、全く同じように義と認めてくださいます。それは、神は唯一の神であるからです(30節)。
そして、主イエス・キリストも唯一の救い主です。「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです」(Iテモテ2:5)。
唯一の神、唯一の主イエス・キリストが、神の義を示してくださり、私たちを義として下さったのです。信仰義認は唯一の救いです。
3、信仰義認は、律法を確立する
律法の精神は、神を愛し、人を愛することです。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません」(マルコ12:30−31)。
信仰義認の恵みの中に入れられた信仰者は、真心から、神と主イエスを信頼し、神を愛し、人を愛するようになりたいと祈り、そのように生きようとするのです。