「神が人となられて」 ローマ1:26-32、ヨハネ1:18
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(ヨハネ1:18)。
クリスマスの奥義は「受肉降誕」です。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)。 主イエスは、聖霊によって、「神が人となられて」、処女マリヤからお生まれになったのです。
神の民である多くのユダヤ人は、救い主の誕生に無関心、無視でした。律法学者たちは、救い主はベツレヘムに生まれるという預言を知りながら、行動を起こしていません。ヘロデ王は、誕生した幼子の虐殺を計画しますが、主イエスの一家は、神の助けによってエジプトに逃げます。幼子主イエスに礼拝をささげたのは、野原の羊飼いと東方の博士たちだけでした。
神がその御子をこの世にお遣わしになったのに、多くの人は心を開いて歓迎していなかったようです。私たちはどうでしょうか。
1、人は、神を知ることに、価値を認めない(28節)
神は、神が創造された被造物を通して、神の存在を明らかに啓示されています(20節)。 現代は、「聖書」によって、誰でも、神を知ることができます。
しかし、多くの人は、「神を知ることに、価値を認めなかった」のです。そして、「神は、無価値なに思いに引き渡されました」。
2、人は、あらゆる罪にまみれている
人は、心に無価値な思いが満ちると、「してはならないことを行なって」しまうのです。罪の行為のリスト(29−30節)が記されています。人に良心があれば、誰でも罪とわかります。それなのに、人の世界に罪は蔓延しています。そのような罪の行為は、「死に値するという神の定めを知りながら」(32節)、その罪を止めようとはしません。それどころか、自分が罪を行うだけでなく、他人の罪も助長しています。自分が自分の罪を拡散し、他人の罪に自分が巻き込まれてしまっているのです。
3、神が人となられて、神を説き明かされた(ヨハネ1:18)
「神がいるのであれば、神を見たい」と、誰でも思います。「受肉降誕」(ヨハネ1:14)とは、神が、人の世界に、人となって、人が理解できる言葉と行為によって、神ご自身を見せて下さったことです。それが主イエス・キリストの降誕です。
ローマ書で確認することは、神は、被造物を通して、神ご自身を啓示しています。しかし、神に創造された人は、「神を知ることに価値を認めない」で、「無価値なものを求め」、その結末は、死と滅びです。
このような罪の世に、神は主イエス・キリストを遣わされました。私たちは、神が人となられた主イエス・キリストによって、神を知り、神の救いに導かれて、神と共にある価値ある生き方ができるようになりました。